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最後の記念日


8月15日は「終戦記念日」だった。

人類としてのありとあらゆる「欲」を持つ僕が、きれいごとを言うつもりは毛頭ない。逆に「欲深さ」にかけては人一倍と言っても良い。「正しい人」と名付けられたにもかかわらず、自分の利益のために(精神、物質両面において、)「正しくない行い」も多々。

そんな「中村正人」の、独り言。

大宇宙に存在する数えきれないほどの生命体の一つとしての僕たち人間が、自分達のDNAを存続させてゆくために、どんなことをしても生き延びようとする「本能」が、生命体の活動の根源である事は(意識しようが、しまいが、)否定しようがない。

また、民族、国家、宗教、会社組織等々のために、個としての自分のDNAの存続を犠牲にしても、自分の属する集合体のDNAを守り、存続させ、さらなる発展を強く願う意志(あくまでも意志の段階)も、決して否定はできない。

ただ、ここで大きな問題がある。

その「本能」に従って行動したり、その「意志」を行動に移したとき、自分以外の「他」、あるいは自分の属する集合体以外の「他の集合体」と、必然的に、大なり小なり摩擦が起き、衝突が起こるという事実である。

人類に限っても、「他との摩擦、衝突」は一秒一秒、世界の至る所で起きている。子供達の遊び場の取り合いから、会社内の派閥争い、民族間の争い、国家間の戦争。視点を変えれば、自然環境問題も、人類と他の生命体との摩擦、衝突に他ならない。

学生の頃読んだ小説に、「自分が生きているだけで、他人に迷惑をかけている。」という一文があった。言い換えれば、「他人との接触無しに生きる事はありえない。」ということだ。個人レベルでのDNAの「宿命」を実に簡単に表現している。

ならば、と、考える。

生命体の存在理由であるDNAの「宿命」から逃れられないのなら、「他」或は「他の集合体」との「摩擦、衝突」を出来るだけ避けながら、DNAの「本能」や「意志」が目指す存続や発展を続ける事は出来ないのだろうか。人類以外の生命体が証明しているように、様々な知恵と工夫、進化や時には退化をして、必要最低限の「摩擦や衝突」で「他」と「うまく」やっていけないのだろうか。自分と「他」を共存させることは出来ないのだろうか。

どんな生き物の世界でも、DNAの必要にかられて、「他」を排除しようとする行為が完全に無くなることはないだろう。

しかし、僕ら人類だけが、その歴史が始まって以来、延々、DNAが必要とする以上に、あえて傷つけ合い、殺し合っている現実が、残念でならない。

割り込みをして来た車に、怒鳴らないでいられるだろうか。家族に危害を加えた人間に対して、報復したい気持ちを抑えられるだろうか。僕の愛する人たちが戦争に巻き込まれた時、僕は銃を取る事を絶対しないだろうか。

僕は「戦い」そのものを否定している訳ではない。人として断固戦わなければならない時もある。

しかし、「戦争」は、断じて、「戦う」手段ではない。

あえて言うなら、僕たちは「戦争」を無くすために戦わなければならない。

僕は、まず、自分のDNAとちゃんと向き合って話をしなければならない。

そして、できれば、自分の代で、DNAから「戦争」という情報を削除して、次の世代に受け継いでもらわなくてはならない。

8月15日が、日本の歴史上、「最後の終戦記念日」となるよう、強く、強く、願う。

戦争で亡くなられた多くの方々に、黙祷。

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