レコーディングをしていたら、突然、またあの感覚に襲われた。
「うわ〜、僕、プロのミュージシャンとして仕事してるんだ〜。」
音楽で(やっとこさ)ご飯が食べられる様になってから25、6年経つのかなぁ。「なぁ。」なんて曖昧な表現なのは、その最初の8年位は、ツアーの谷間だったり仕事が無かったりしたらアルバイトもしてたので、プロだったと言い切るにはちょいと恥ずかしいし、(正直な話)明日プロとして存在出来るか本当に分からない種類の職業なので、こんな言い方になってしまう。
今現在でも、プロとして仕事をしている自分の状況が夢の中での出来事のように思えてしまうようなヘンな感覚に襲われる。
そんな時、感謝の気持ちと供に、 必ず脳裏に浮かぶ3人の人物がいる。
「あの人たちに出会わなければ、絶対今の音楽家としての自分はなかったよなぁ。」(この「なぁ。」は曖昧な意味ではなく、深く深く物思いにふける様子を表す。)
その3人とは、風間健典氏、素野哲氏、高橋利之氏。
風間氏との出会いは、僕がフォークギターを本格的に始めた中学生の頃、同じ学校に通っていた妹さんの紹介で、ギターの家庭教師(といっても毎日のように氏の自宅におじゃましたのだが)を引き受けてくれたのが始まりである。(と思うが記憶が定かでない。後に修正の可能性あり。)
8つ年上で当時大学生だった風間氏は、今考えても感心するほど良く練られたカリキュラムでギター演奏を教えてくれた。
それだけではない。練習そのものの仕方や他のミュージシャンとのセッションの仕方、レコード/ラジオから音楽を学ぶ方法、しいては、中古レコード屋さん(主に銀座、新宿、渋谷)回りの極意まで、音楽する方法の全てを教えてくれた。
ただのギター小僧だった僕は、それからのアマチュア時代10年以上を、風間氏の背中を見ながら歩むことになる。その関係はまさにオビ・ワンとアナキンのようだった。国府台高校の元文化委員長(同高校の文化委員にとって歴代の委員長は神様のような存在だった。)でもあった氏は、真の意味で、僕のジェダイ・マスターだった。
同時に、風間氏は、ソウル/ジャズ系セッション・ミュージシャンの研究家でもあった。特にDavid T. Walkerに関しては世界一のコレクターである。壁や床一面に積まれた数えきれないほどのレコードをむさぼり聞く日々。それが現在の僕を作る上でどれだけ大切な時間だったかは、どんなに言葉を尽くしても尽くしきれない。
僕がJ−フォークから「はっぴーえんど」を経由してR&B/ソウル/ファンク系音楽に大きく傾倒して行ったのは200%、氏の影響である。
また、フォークギターしか知らなかった僕にベースを弾く事を勧めてくれたのも風間氏だ。ひょっとしたら風間氏は早くから僕にギターの才能が無いのを見抜いて、ベースへの転向を促してくれたのかもしれない。
風間氏と出会っていなければ、吉田美和のbeauty and harmonyの2作は生まれなかったし、マービン・ゲイやバリー・ホワイトが亡くなった時に一晩中59(号泣)しなかったし、David T. Walkerと仕事をする幸せにも与れなかったろうし、なにヨリモ、ドリカムの中村正人は存在していない。
そんな風間氏に、ある日、千葉県市川市にあるフォーク村のリーダーのもとへ連れて行ってもらう。そのリーダーが素野哲氏だ。
つづく。
★業務連絡★
[その一]
「正夢BOX」にあった「夕べ」について、マスター山本をリーダーとするツアー制作チームから結論がでたらしい。詳しくはDCTgarden.comを、プリーズ・チェッキラーウト!
[その二]
ロックトウサンシングル「きみにしか聞こえない」のMVの話題、スポーツ報知さんに大っきく取り上げられて、僕、ウレスィー。